旧津山市役所庁舎(昭和9年築)。現在、津山郷土博物館として活用されています。
(11,501歩)
日本各地の近代建築探訪など
旧津山市役所庁舎(昭和9年築)。現在、津山郷土博物館として活用されています。
(11,501歩)
津山基督教図書館(大正15年築)。桜庭駒五郎の設計と聞いて、どこかで聞いた名だと思ったら、弘前で多くの建物を建てている棟梁でした。
(22,171歩)
旧陸軍第10師団兵器庫(明治39年築)。現在、姫路市立美術館として活用されています。
(35,439歩)
旧宇品陸軍糧秣支廠缶詰工場(明治44年築)。現在、広島市郷土資料館として活用されています。
(12,401歩)
旧門司税関(明治45年築)。現在、ギャラリーや休憩所として活用されています。
(10,668歩)
旧大阪商船門司支店(大正6年築)。現在、海事・イベントホールとして活用されています。
(8,829歩)
旧九州鉄道本社(明治24年築)。現在、九州鉄道記念館として活用・公開されています。
(9,158歩)
旧妹尾銀行津山東支店(大正9年築)。昭和48年まで中国銀行の支店として使用されていましたが、現在は津山洋学資料館として公開されています。
(-歩)
旧十七銀行直方南支店(大正6年築)。展示スペース「アートスペース谷尾」として転用・活用されています。
(-歩)
4月8日より京都国立博物館で、特別展 没後120年記念「絵画の冒険者 暁斎 Kyosai-近代へ架ける橋」が始まりました。
暁斎とは河鍋暁斎のことで、幕末から明治にかけて活躍した日本画家です。河鍋暁斎と近代建築の関係で言えば、日本の近代建築の父であるコンドルが暁斎に弟子入りして日本画を学び「暁英」という画号を授かっており、暁斎の臨終も看取っています。さらに、当前村記念博物館としては、河鍋暁斎が江戸本郷の狩野派絵師前村洞和の弟子であったことも見逃せません。
これまで河鍋暁斎の大規模な展覧会は開催されておらず、今回の特別展では海外からの里帰り作品や未公開作品なども多く、他には巡回しないというのですので、これは見に行くしかありません。
来週の土曜日、4月19日に、大阪の天満屋ビル「ハaハaハa」さんで開催中の「まちかどの近代建築写真展」撤収の行きがけに、暁斎展を見てこようと思っています。夜行バスで行くことになりそうです。
京都国際マンガミュージアムでも、特別展「明治日本のギャグマスター 暁斎漫画展」をやっており、こちらも見なければ。両方を半日で見るのは無理そうですので、やはり泊まり掛けで行くしかないかナ。
暁斎は速筆・早描きで多作な人でしたので、各地で掛け軸や額を見ることがありますが、今回のような大きな会場で一堂に会して見ることのできるチャンスはなかなかありません。また、今回の特別展は、埼玉県蕨市にある「河鍋暁斎記念美術館」所蔵のものが大半なのですが、これまで直接見たことのないコンドル所蔵だった里帰り作品に大いに期待したいと思います。
特別展覧会 没後120年記念
絵画の冒険者 暁斎 Kyosai -近代へ架ける橋
・会期:2008年4月8日(火)~5月11日(日)
・休館日:月曜日(ただし5月5日は開館)
・開館時間:午前9時30分~午後6時 金曜日は午後8時まで
(入館は閉館の30分前まで)
・会場:京都国立博物館 (東山七条)
京都国際マンガミュージアム特別展
明治日本のギャグマスター 暁斎漫画展
・会期:2008年4月8日(火)~5月11日(日)
・休館日:水曜日(祝日の場合は翌日)
・開館時間:午前10時~午後8時
(入館は閉館の30分前まで)
・会場:京都国際マンガミュージアム2階 メインギャラリー
国立京都博物館
http://www.kyohaku.go.jp/jp/index_top.html
京都マンガミュージアム
http://www.kyotomm.com/
河鍋暁斎記念美術館
http://www2.ocn.ne.jp/~kkkb/Kyousaij.html
※コンドルが書いた河鍋暁斎の伝記は必読です!(岩波文庫)
万世橋派出所(明治後期築)。東京神田の万世橋のたもとにあった建物を、小金井市の江戸東京たてもの園に移築。そのままトレーラーに積んで運んだことで、話題となりました。
(9,185歩)
小生の故郷である北海道では、金時豆の甘納豆のお赤飯が普通であるということは、結構有名だと思います。食紅でもち米をピンク色に染めた、甘いお赤飯です。昨年末、『どさんこソウルフード』という本も出て、北海道では話題になっていました。
さて、お赤飯に小豆(やササゲ)ではなく金時豆を使うのは、北海道と青森など東北地方の一部と認識していたのですが、かつて沖縄に旅行に行ったおり、名護の博物館に金時豆のお赤飯が展示してあり、驚いたことがありました。柳田國男ではありませんが、「蝸牛考」のように周辺部に同じような文化が残っているのではと考えたりしました。まあ、北海道の甘納豆赤飯は、戦後に料理研究家が広めたという話も聞きますので、それほど古い文化でもないのですが(昭和20~30年代に札幌の光塩学園女子短大の南部明子先生考案だということですが、これはもしかしたら、甘く煮た金時豆を使う代わりに、甘納豆を使うというアイデアだったのかも知れません)。
先日、長野県の伊那市へ行ったおり、スーパーの惣菜コーナーで金時豆のお赤飯を発見しました。しかも、小豆のお赤飯は一切置いておらず、金時豆のお赤飯だけが並べてあります。驚いて、近くにいた買物中のご婦人2人にお聞きすると、この地方では普通、この金時豆の甘いお赤飯を炊くとのこと。「蝸牛考」説は、吹っ飛びました。
伊那地方だけの習慣かと思っていると、長野市出身の職場の同僚の家でも、金時豆のお赤飯を食べるとのことで、どうも長野県全域で広く一般化しているようなのです。長野での金時豆のお赤飯の話があまり出てこないのが不思議ですが、地元ではそれが普通の赤飯であると考えているので、あえて関心を呼ぶテーマではないのかも知れません。北海道の場合、北海道以外の地域から出張や転勤で来る人が多く、変わった食べ物として意識されたのかも知れません。
そもそも、金時豆のお赤飯の起源は長野・山梨地方であって、北海道開拓とともに北海道に渡った食文化だという、新しい仮説をたててみました。この仮説は、地域分布的にも理にかなっているような気がします。ちなみに、うちの母方の祖母が山梨県の出身で、北海道に開拓に渡った人ですので、話がヤヤコシイのですが……。
あるいは逆に、北海道開拓民の里帰りと共に、北海道の食文化である金時豆のお赤飯が、長野・山梨地方にもたらされたという逆流入説も、成り立つかも知れません。この仮説の場合、北陸地方や東北地方南部にも、金時豆のお赤飯がなければなりませんけれど。
うちの地方でも金時豆のお赤飯を食べるよ、という情報を、ぜひお寄せください。
日経新聞の「食べ物新日本奇行」というページに、アンケート調査に基づく記事が出ていました。
http://weekend.nikkei.co.jp/kiko/20030319s863j000_19.html
名鉄岩倉変電所(明治45年築)。愛知県岩倉市から博物館明治村に移築された建物です。
(10,421歩)