旧広島文理科大学(昭和6年築)。爆心地より1.4kmの地点。現在、敷地は公園となっていますが、建物の今後は未定とのこと。何とか有効に利用して欲しいものです。
たまたま数日前に知ったのですが、今月、民事再生法の申請をした株式会社アーバンコーポレーションが、この広島大学本部跡地の再開発事業を受注しており、再開発計画は白紙に戻るともいわれています。
広島大学本部跡地の再開発計画
http://www.urban.co.jp/news_contents.html?id=725
日本各地の近代建築探訪など
旧広島文理科大学(昭和6年築)。爆心地より1.4kmの地点。現在、敷地は公園となっていますが、建物の今後は未定とのこと。何とか有効に利用して欲しいものです。
たまたま数日前に知ったのですが、今月、民事再生法の申請をした株式会社アーバンコーポレーションが、この広島大学本部跡地の再開発事業を受注しており、再開発計画は白紙に戻るともいわれています。
広島大学本部跡地の再開発計画
http://www.urban.co.jp/news_contents.html?id=725
福屋百貨店(昭和13年築)。爆心地から710mの地点で全焼しましたが、現在も福屋百貨店として同じ用途で使われています。古い百貨店の建物は、カッコイイと思います。
旧三井銀行広島支店(大正14年築)。爆心地より360m。アーケードで覆われていますが、現在、アンデルセンというベーカリーが活用しています。
旧日本銀行広島支店(昭和11年築)。爆心地から380mですが、外観はそのまま残りました。解体話もありましたが、保存運動の末、現在、ギャラリーとして活用されています。
昨日、渋谷で木造2階建の民家が倒壊したというニュースがありました。築80年ほどの建物ですが「老朽化で自然倒壊したものと見られている」という報道でした。
さて、今年の5月、中国の四川省で大地震があり、その直後に書き始めた、書きかけの文章があります。なかなか結論が出せずに、ずっと書きかけのままとなっていたのですが、昨日の民家倒壊のニュースを受けて、これは発表しておかなければならないと思い、少し手直しをしてUPすることにしました。
中国・四川省大地震では数多くの校舎が倒壊し、生徒・学生たちの痛ましい状況が報道されました。
この報道を受け、「日本の学校は大丈夫なのか?」という声も多く聞かれました。朝日新聞の記事によれば、1981年以前に建設された、古い耐震基準が適用された公立小中学校の校舎が、全国で約8万棟。そのうち、改修済みが約2万7千棟で、残りは、耐震診断で危険と判定されたか、耐震診断自体を受けていない校舎なのだとか。
さて、ここでかねてよりの疑問なのですが、古い建物は即、危険な建物なのでしょうか? 時間を経過した建物は、当然、老朽化します。しかし、老朽化とは、配管や塗装などの設備面の劣化が中心ではないかと思うのです。もし、構造自体も老朽化するのだとすれば、町の建物は一定の経年ごとに建替えられなければならないことになります。つまり、古い建物は全て一掃し、常に新しい建物に建替え続けなければならないことになります。しかし、何か変ではないでしょうか。だって、古い建物の街並みは、確かに存在するのですから。
木造は別として、鉄筋コンクリート(RC)造の建物について考えてみたいと思います。小生が子供の頃(40年くらい前)、RC造の建物は、「永久建築」とか「100年持つ」と聞かされていました。その後、大人になってから、RC造の建物の寿命は50年とか、40年とか聞くようになり、「アレ?」と思っておりました。
設備面での劣化に対しては、適切な保守を行なうのは当然です。これは、何もRC造の建物に限ったことではありません。しかし、もし仮に、RC造の建物の構造に対して、経年係数のようなものがあるのだとすれば、これまでの考え方を根本的に考え直さなければならないことになります。建築の専門家の方にぜひお聞きしたいのですが、老朽化=危険という図式は本当に正しいのでしょうか。
適切にメンテナンスを続けていけば、建物は半永久に保つことができるのではないでしょうか。「老朽化」が危険なのではなく、「必要なメンテナンスを怠ること」が危険なのではないでしょうか。
もちろん、手抜き工事や、偽装設計などは、当然ながら論外なことです。そういったことを除外したうえで、真っ当に建てられた建物についても、「老朽化」即「危険」と報道され、それが世間で正しいことと認知されていることに、どうしても納得がいきません。古い建物が危険なのではなく、必要な手入れを怠った建物が危険なのです。
建築家の方々、建設会社や工務店など建築を職業とするプロの方々、どうぞ、この当たり前のことを公言してください。世の流れは、誤った認識によって誤った方向に向かいつつあるように思われてなりません。
旧大正屋呉服店(昭和4年築)。爆心地から170m、上空580mの地点での原爆炸裂ですので、ぼぼ真上からの被爆でした。現在、広島市平和記念公園レストハウスの名で、無料休憩所と観光案内所として活用されています。
旧広島県物産陳列館(大正4年築)。いわゆる原爆ドームですが、建物というよりモニュメントとなっています。在りし日の姿を見ると、思いのほか両肩の張った四角い建物という印象です。
広島電鉄中央変電所。相生橋の手前で、寺院の奥に見かけました。被爆建物リストには載っていないので戦後の建物のようですが、どうも怪しい物件です。
旧広島中央電話局西分局(昭和12年築)。爆心地から1.1kmにある、山田守設計のモダニズム建築です。最近までNTT広島西営業所として使われていましたが、現在は空家です。
旧逓信省電気試験所広島出張所(昭和12年築)。爆心地から1.7kmのモダニズム建築です。
旧己斐調整場送水ポンプ室(昭和7年築)。爆心地から2.3kmの、総タイル貼、アーチ多用の建物です。
旧日本麻紡績給水塔(大正8年築)。爆心地から2.8kmの地点にある煉瓦造の給水塔(の台座部分)です。
観光橋(昭和12年架橋)。爆心地から2.6kmの地点にある被爆橋で、八幡川に架かる小さな橋です。
猿猴橋(大正15年築)。かつては、この橋が広島駅前の橋だったようです。
猿猴川沿いに建つ洋館。外壁の塗装が厚塗りですが、確かに戦前の建物だと思います。
旧住友銀行東松原支店(大正10年築)。煉瓦造の建物で、現在、谷口織物が使用しています。
宇品で見つけた洋館。アーチ窓や円窓の付いた素敵なお屋敷が残っていました。
勝利湯。腰回りにスクラッチタイルを貼った銭湯です。現役(のはず)ですが、行った日は煙突から煙も見えず、どうも休業のようでした。
宇品で見つけた洋館。旧医院ではないかと思われます。県立広島病院の南側には、洋館付住宅が多く残っています。
旧広島水上警察署(明治42年築)。その後、宇品警察署、広島港湾事務所として使われ、現在は空家です。爆心地から4.6kmの地点で、木造建築が現存していることに驚かされました。老朽化も激しく、何とか有効に活用して保存したい建物です。
電車通りに建つ看板建築。外壁がリフォームされていますが、コーナー上部の鏝細工の箇所のみ、表面を覆わず残しています。
旧中国配電南部変電所(昭和18年築)。戦時下に、このようなアールデコデザインの建物が建てられたことに驚かされます。現在、E.R.E宇品御幸ビルという名称になっていますが、空家のようです。
旧広島高等学校講堂(昭和2年築)。現在、広島大学附属中・高等学校講堂として使用されており、先年、登録文化財に登録されました。
旧広島陸軍被服支廠(大正2年築)。当時、広大な敷地に多くの倉庫が建てられていましたが、第10番庫~13番庫の4棟が現存しています(南北に一直線に3棟、南端東西に1棟)。RC造煉瓦貼りで、長さ94m、高さ17mの建物3棟が一直線に並ぶ様は壮観です。戦後は、南北の3棟が広島県、南端東西の1棟は国の機関などに使用され、現在はいずれも空家となっています。
皆実町中通り商店街の中ほどにある洋館。大きな円窓を見ると、ただの住宅とは思えません。この建物のある通りは、旧被服厰の正門から真っ直ぐに続く「被服通り」と呼ばれた通りです。
旧常磐グリース製造所倉庫(大正2年頃築)。南区大洲の猿猴川のほとりに残る被爆建物で、現在、三戸商店倉庫となっています。被爆当時は、日本特殊グリース倉庫でした。
被爆建物である旧第一高等小学校(現比治山中学校)近くの洋館(旧医院か?)。昭和初期の被爆建物ではないかと思われます。南区の猿猴川と京橋川とにはさまれたこの地区は、比較的爆心地に近い(2~3km)にも関わらず、比治山の山陰になったことで多くの建物が残っていたのではないでしょうか。ただ、現在この周囲の地域は大規模な区画整理が進められており、更地が広がっています。
旧青森営林局庁舎(明治41年築)。青森市街から少し外れたところに建ち、青森大空襲の被害から逃れた建物です。現在、青森市立森林博物館として公開されています。
御菓子司睦月堂本店。大曲(現大仙市)の商店街に建つ洋館です。
旧神岡町神宮寺(現大仙市)の洋館。正面の三連アーチが特徴的な事務所です。