カンヅメプラリスご当地。角地に縦長のスチールサッシが特徴的です。
日本各地の近代建築探訪など
カンヅメプラリスご当地。角地に縦長のスチールサッシが特徴的です。
ダイ十呉服店。外壁と木製サッシのグリッドがモダンです。
一昨日、上野の藝大美術館で開催中の「バウハウス・デッサウ展」へ行ってきました。ブロガー特別鑑賞会という、閉館後(17時10分~19時)、定員20名だけ、写真撮影可(条件付)という、何とも素晴らしい状況下での鑑賞でした(応募多数で、定員枠を50名まで広げたと後に知りました)。
まず、今回の展示で、これまで小生が勝手に思いこんでいたことが誤りであることに気付きました。時代順に「アール・ヌーボー」-「アール・デコ」-「バウハウス」だと思いこんでいたのですが、展示されていた年表で見ると「アール・ヌーボー」-「バウハウス」-「アール・デコ」の順だったのですね。とすると、バウハウスが突き抜けて、現代につながる画期的なものだったということです。装飾性を排した、無機質で機能的なデザイン。あるいは、装飾、その反動で非装飾、再び装飾という、揺り戻しだったのか。
バウハウスは、1919年から1933年までというほんの短い間に、ドイツで展開した教育機関の実践活動でしたが、そのインパクトは衝撃的であり、その後の世界への影響力は今もなお続いています。今回の展示もそうですが、バウハウスの活動は多方面にわたっています。多様な才能を持った教育者が集まり、デザイン、絵画、写真、工芸、染色、舞踏、演劇、そして建築など、さまざまなジャンルでの実験的な活動をくりひろげました。
過去、セゾン美術館や宇都宮美術館でのバウハウス展での展示でもそうでしたが、小生の興味は、家具、ポスター、建築といった分野にのみ惹きつけられてしまいます。絵画や舞台芸術などは、どうも前衛すぎて面白くないというか、わからないというのが実情です。
今回の「バウハウス・デッサウ展」は、ハウハウス中期から後期にかけての、現在も残るデッサウのバウハウス校舎での活動を中心に展示しています。
第一部は「バウハウスとその時代」で、バウハウスに到る様々な運動や活動、そしてヴァイマールでの初期バウハウスの活動を、地下1階の展示室を使ってざっと紹介しています。まあ、言われてみればそうなのですが、ジョン・ラスキンやウィリアム・モリスから説きおこすかと思いました。創設期のバウハウスの工芸品の数々のいとおしさ。機械化、量産化を目指しながらも、多分に手工芸的なところを残した陶磁器やテーブルランプなどが、印象に残っています。
第二部は「デッサウのバウハウス」。3階の広い展示室を使った、今回のバウハウス展の中心展示です。まず、各教授たちの基礎教育の授業内容の紹介。そして、工房の紹介として、金属、家具、織物、壁画、印刷・広告の5工房に絞っての作品の紹介。さらに、実験的な写真芸術、舞台工房の映像や舞台装置の図案など。小生の興味は、やはり家具や金属に向かいます。
工房での試作と外部での量産という「バウハウススタイル」、多様なユニット化の試みなど、バウハウスの活動は、その後の機械化・工業化の生産につながる先駆けであったことがわかります。ただし、決して意図したものではないのでしょうが、バウハウスの時代にはまだ手造りの親しさ・温かさが残っており、その後の時代の工業製品の疎外感・冷たさはありません。
印刷・広告では、肉太の黒々としたレタリング、様々な級数で構成するタイポグラフィなど、派手さはないものの、訴える力のあるデザインが印象的でした。そして、効果的に使われる朱赤。それはちょうど、日本の書道や日本画などの落款印のような効果があります。まるで日の丸の旗のようなデザインの展示もありました。
第三部は「バウハウスの建築」。世界遺産となった「バウハウス校舎」などの模型と写真、図面の展示、そして校長室が原寸大で再現され、その室内へ立ち入ることも許されています。恥ずかしながら、バウハウスの「バウ」とは「建築」のことだったと、今回初めて知りました。バウハウスの最終目標は建築であるとする「バウハウス宣言」は、建築に興味を持つ者にとって、どれだけ力強い支えとなっていることでしょう。諸学の中心が哲学であるように、諸芸術の中心が建築であると。
バウハウスの建築の特徴は、鉄とガラスとコンクリートであり、現代に続くモダニズム建築の先駆けでもあります。しかし、工芸でもそうだったように、バウハウスの建築も親しさ・温かさを感じるのは、彼らには不本意だったかも知れませんが手作業の残る仕上がりゆえだと思われます。技術的にも未熟であり、実験的な試行錯誤による建築現場での作業により、それまでにない新しい建物を実現させました。バウハウスの建物を象徴するものは、建物から飛び出した、飛び込み台のような支えのないテラス(ベランダ)ではないかと思いました。鉄パイプの手すりとともに。
今回、ブロガー特別鑑賞会という、願ってもない機会を与えてくださった主催者の方々に、厚く御礼を申し上げます。お土産にいただいた図録の、なんと厚いことか。746頁もあります。最近の図録は、厚さを争っているのでしょうか(笑)。
最後に、以前は週末の夜間開館を実施している美術館や博物館が結構ありました。わざわざ美術展のために都心まで出てくるのではなく、仕事帰りにフラリと気軽に鑑賞できるということは、どんなに素晴らしいことでしょう。スタッフの方々のご負担も大変かとは思いますが、週末の夜間開館の実施について、ぜひご検討いただきたいと思いました。
バウハウス・デッサウ展 BAUHAUS experience, dessau
http://www.bauhaus-dessau.jp/
【会期】2008年4月26日(土)~7月21日(祝・月) 月曜休館
【開館時間】午前10時~午後5時(入館は午後4時30分まで)
【会場】東京藝術大学大学美術館[東京・上野公園]
(〒110-8714 東京都台東区上野公園12-8)
【主催】東京藝術大学、産経新聞社
【共催】バウハウス・デッサウ財団
【巡回先】2008年7月29日(火)~9月7日(日) 浜松市美術館
2008年9月13日(土)~10月19日(日) 新潟市新津美術館
2009年1月25日(日)~3月29日(日) 宇都宮美術館
石川呉服店。細長い建物で、伊那でよく見かける雷紋付の建物です。
このところ小林多喜二の『蟹工船』が売れに売れ、新潮社では古い文庫本では異例の2万7000部の増刷をかけたということがニュースになっていました。
小林多喜二といえば、小樽生まれの小生にはなじみ深い作家です。小樽にゆかりのある作家といえば、石川啄木、伊藤整、そして小林多喜二と、だいたい相場が決まっていました。いずれも市内に文学碑があり、ガイドブックには必ず載っています。小林多喜二の文学碑は、小樽港を見下ろす旭展望台にあり、労働者の首の付いた煉瓦色の文学碑は、子ども心に怖かった思い出があります。
http://www.otarucci.jp/kankou/bunka/bungakuhi/bungaku002.html
旧北海道拓殖銀行小樽支店(大正12年築)
旧三菱銀行小樽支店(大正11年築)
旧第一銀行小樽支店(大正13年築)
旧三井銀行小樽支店(昭和2年築)
小林多喜二は、生まれは秋田県の下川沿村(現大館市)ですが、4歳のときに小樽に渡り、大正13年に小樽高等商業学校(現小樽商科大学)を卒業後、市内の北海道拓殖銀行小樽支店に勤務します。現在「ホテルヴィブラントオタル」となっている旧北海道拓殖銀行小樽支店の建物は大正12年に建てられましたので、新築翌年の銀行の建物で勤務していたことになります。なお、この拓銀のある交差点には、大正11年築の旧三菱銀行小樽支店、大正13年築の旧第一銀行小樽支店が、また拓銀の並びには昭和2年築の旧三井銀行小樽支店の建物が現存しています。小林多喜二が勤務していた頃は、ちょうど小樽の銀行の新築ラッシュだったのです。
昭和4年に『蟹工船』が発表。同じ年に発表した『不在地主』が原因で拓銀を解雇され、翌年、小樽を離れ、東京に移り住みます。そして、昭和8年に特高に逮捕され、築地警察署内での拷問により獄死します。
今、大ヒットしている小林多喜二の『蟹工船』ですが、小生は今から30年くらい前、中学生のときに読みました。小生の感想としては、ちょっと読みにくい、粗削りな作品という印象があります。小林多喜二の『蟹工船』よりも、葉山嘉樹の『海に生くる人々』のほうが、読みやすく、小説としても完成していると思いました。ちなみに、小林多喜二は、葉山嘉樹の『海に生くる人々』を読んで『蟹工船』の執筆を決意したといいます。
小林多喜二の『蟹工船』を読んだ方は、ぜひ、葉山嘉樹の『海に生くる人々』や『セメント樽の中の手紙』、徳永直の『太陽のない街』なども読んでみてほしいと思います。
なお、少々時代が下りますが、小樽の映画館の数は、ピーク時には23館もありました(昭和30年~35年頃)。当時、小樽市の人口は約18~9万人だったので、「小樽は人口比で8000人に一館の映画館を持つ、北海道随一の映画館のまち」でした。大正末には、小樽には10を超す映画館があり、小林多喜二の日記には、小樽の映画館で見た映画の感想などが綴られているといいます。
また、小樽の銭湯の数も、ピーク時(昭和40年頃)には72軒もあったといいます。同じ町内に何軒も銭湯があるという状況でした。今では、銭湯の数は20軒ほどになっていますが、町の規模からすると、今でも小樽は銭湯の多い町です。
内山金物店。建物上部の雷紋状の模様と両隅上部の縦格子がアクセントになっています。
いせや洋服洋品店。列柱のように見える縦格子の下は、ガラス張りです。
正藤酒店。東京の神田にでもありそうな、総銅板張りの看板建築です。
雑貨オ・ルージュカグヤ。西に丸イのマークは、旧オーナーの屋号でしょうか。
理容ヨシダ。隣のスーパーヨシザワで、甘い金時豆の赤飯についてお聞きしたご婦人が、この理容ヨシダの方でした。
スーパーニシザワの一部。この建物も、かつては別の店舗だったと思われます。
今はスーパーニシザワの一部となっていますが、かつては別の店舗だったと思われます。
とうとう、デジタル一眼レフカメラを買ってしまいました。NikonのD60。今月初め、アマゾンで、レンズ付キットが5万円台になっていたもので、思わず買ってしまいました(今は1万円高くなっている!)。※6/20再び5万円台です。
思えば、小生が自分の一眼レフを手にしたのは、今から30年も前、高校に入学したときでした。CanonのAE-1です。入学祝いとして、親にねだって買ってもらった一眼レフでした。当時、予算は5万円までと提示され、ボディのみを購入しました。レンズは、親が持っていたCanonの標準レンズを借りて(勝手に!)、使っておりました。当時、小生の高校の写真部では、OLYMPUSのOM-1を持っている者ばかりでしたので、CanonのAE-1の評判は散々でした。
高校卒業時に、お年玉を貯めて標準ズームレンズを買いました。これも、5万円弱程度。ボディと同じくらいの値段のレンズを付けて、京都の下宿でのひとり住まいを始めました。
どこへ行くのでも、このAE-1を担いで歩きました。周遊券を使っての北海道や九州への2週間の長旅でも、持って歩きました。当然ながら、自分でパトローネに充填したモノクロフィルムを何本も持っての旅です。厳寒の根付半島のトドワラで、シャッターが下りなかったり、フィルムが切れてしまったりしたした経験もありました。
このAE-1の難点は、フィルムカメラでありながら、電池が切れると全く使えなくなってしまうことです。電池が切れても、シャッターくらい下りてくれても良さそうなものですが、一切使えなくなってしまうのです。しかも、AE-1で使っている電池は旅先ではなかなか売っていないような特殊なもので、しかも結構高かったのです。旅先で電池切れになり、持って行ったカメラがただのお荷物になってしまったという経験も、幾度となくしました。前日に交換した電池が、翌日には切れているという漏電の故障で、修理に出したこともありました。
大学を卒業後、仕事も忙しくなり、旅先へもコンパクトカメラを持って行くようになり、やがてはカメラ自体からも遠ざかっておりました。
CASIOのQV-10の登場でデジカメに飛びつき、その後、画素数が上がる度に何台買い換えたことか。そして今回、やっとデジタル一眼レフカメラデビューです。
数年前、デジタル一眼レフカメラが10万円を切ったときに、一度購入を検討したことがありました。しかし、バッテリーの持ちの問題で、断念していました。長旅には持って行けそうになかったからです。今回、ようやく購入を決めたのは、バッテリーの持ちが相当良くなったことと、5万円台になったことでした。NikonのD60は、重量も500gを切っており、日帰りや一泊旅行くらいには持って行こうかと思っています。
AE-1などのフィルム一眼レフカメラの時には、フィルム巻き上げレバーに親指をかけて構えていたものですが、デジタル一眼レフカメラには当然それが無く、親指の引っ掛かる部分が無いので片手持ちではちょっと心配です。カメラ前面のグリップに指をかけて持つのでしょうが、親指が遊んでしまって……。
当面は、デジタル一眼レフカメラと、デジタルコンパクトカメラとの両方を持ち歩くことになりそうです。
今回、NikonのD60とD40、CanonのEOS Kiss X2、そして新製品のEOS Kiss Fを購入対象として検討しました。まあ、最近はNikon系のデジタルコンパクトカメラを使っていたので、あまり深い考えもなく、NikonのD60になりました。はたして、夏の旅で使えるカメラかどうか。
スーパーニシザワ。2連アーチの間に屋号を高々と掲げた看板建築です。
松尾屋。伊那では昭和22年に大火があり、その後、多くの復興建築が建てられました。
ぷちキャバROSSANA。雷紋の付いた看板建築。地方都市には、お水系の近代建築も結構多いです。
漆戸醸造。JR伊那駅のホームから見える、モダンな建物です。
スナックラカン。高遠城下の裏通りで見つけた建物。元は何の建物だったのか、見当もつきません。
高遠閣(昭和11年築)。高遠城址に建ち、国の登録文化財に登録されています。
幸橋(元禄15年築)。国の重要文化財に指定されています。
平戸カトリック教会(昭和6年築)。平戸の町を見下ろす小高い丘の上にそびえ建っています。
九州商船ビル。昨日のO・G・F活魚屋と同じ区画にあります。
O・G・F活魚屋。古い港町には、こうした角の丸い建物をよく見かけます。
平成8年からスタートした国の登録文化財(登録有形文化財)制度ですが、登録総数はすでに7000件を越え、全国的に制度が定着してきたように思われます。海外の事例に比べれば、まだまだ登録数はケタ違いに少ないのですが、少なくとも登録数は着実に増えています。
さて、官報にときどき「登録抹消」の告示が出ることがあり、建物が火事になったのか、解体されてしまったのかと心配になることがありました。実際には、市町村や都道府県、国の重要文化財に指定されること(格上げ)で、登録文化財の登録が抹消される例が多いのですが、今までその実態を掴めずにおりました。
今日、たまたま文化庁のHPで、「登録の抹消について」というページを見つけました。
http://www.bunka.go.jp/bunkazai/shurui/touroku_yukei_masshou.html
このページの情報によれば、平成19年12月5日現在、登録文化財の抹消総数は145件、そのうち、焼失や解体などによる抹消は44件とのこと。この数字、多いのか、少ないのか。小生の感想では、これは予想外に多いと感じました。
小生のHPに登録文化財のリストを公開しておりますが、この抹消情報も加えることにしたいと思います。
(文化庁の方にお会いする度に、登録文化財の抹消理由を明らかにして欲しいとお願いしていたのですが、これで少しは安心できます。)
進徳保育園内の煉瓦蔵。妻側の石材による飾りが珍しいです。
西日本商事ビル。この建物も古いものか迷いましたが、船のイメージを持ち、水平を強調した横一列に並んだ窓などから、戦前の建物ではないかと思われます。
長崎銀行佐世保支店。アーケードの中にあり、少々迷いましたが、コーナー部分や窓回りを見るとやはり古い建物ではないかと思われます。
旧佐世保水交社(明治38年築)。平成9年に、海上自衛隊佐世保史料館として後方の高層棟の一部として公開されています。
旧海軍佐世保鎮守凱旋記念館と道を挟んだ向かい、旧佐世保海軍偕行社水交社の並びにある事務所。