旧二十三銀行本店(大正2年築)。現在、赤レンガ館として活用されています。
日本各地の近代建築探訪など
旧二十三銀行本店(大正2年築)。現在、赤レンガ館として活用されています。
旧大分県農工銀行(昭和7年築)。現みずほ銀行大分支店です。
長井の大通りに建つ洋館。正面中央の小屋根が特徴的です。窓やシャッターなどの開口部は、後に改修されていると思います。
グンゼ長井工場。
塀を隔てた隣の敷地には、黒い塗装の協同薬品工業。こちらは、旧郡是長井工場の建物の転用かと思われます。
長井駅(大正3年築)。旧国鉄の駅舎です。現在、山形鉄道フラワー長井線の本社が置かれています。
個人邸。この下見板張りの建物は、旧医院だったのではないかと思います。
貿上醤油店。この界隈は、造り酒屋なども集まっています。
旧郡役所の近所にあるパン・菓子・食料品店。ポーチが、最初からこの建物に付いていたものか、他の建物から移したものか不明です。
長井市立長井小学校(昭和8年築)。左右対称の総2階建て、左右にそれぞれ4教室ずつ、全長100mに及ぶ大規模な木造校舎です。
先月、開発業者側から諫早市に、旧長崎刑務所の一部保存に向けての条件が提示され、今月中には書面で確認される方向という新聞記事が出ました。
その後の続報はまだありませんが、ネットで検索していたら、旧長崎刑務所の最新の状況についての写真がアップされていました。
きらとま無宿・国内自転車放浪編
http://d.hatena.ne.jp/killertomato/20071215/p1
広い煉瓦基礎の残る敷地に、旧長崎刑務所の管理棟がポツンと建っています。中央部分だけでなく、両袖部分も残っているではありませんか!!
このまま旧長崎刑務所の管理棟と正門の保存が実現すれば、必ず地域にとっても有益な施設となるはずです。多くの人々のアイデアをいれて、有効な使い道を導かなければなりません。
なお、先月11月19日の朝日新聞東京版に、法政大学工学部建築学科准教授の高村雅彦先生がコラムを書いています。その中に、旧長崎刑務所のことについて、ちょっとだけ触れています。
【高村雅彦准教授のキャンパスブログ】
連戦連敗
http://mytown.asahi.com/tokyo/news.php?k_id=13000150711190001
論旨は全く同感なのですが、旧長崎刑務所をテーマにしたゼミ生I君の苦境の話は、どうでしょう。建物の保存は、当然に、学者や研究者のためでは無いし、卒業がかかっていようが「関係無い」話です。逆に、この旧長崎刑務所の保存に向けて、いったいI君は何をしたろうかと問いたい。研究者としての立場は、各方面のいろいろなしがらみなどもあろうし、動きにくいことは十分理解できます。しかし、関わった以上は、たとえ無力であっても、自身にできる範囲で、自身が考えうる限りの行動を起こさなければ、ただ無力を嘆いていてもはじまりません。
高村ゼミのI君、もしこのブログを目にすることがあったら、ぜひ反論を下さい。きっとmixi上では何かをしたのだろうけれど、mixi上では仲間内にしか話題が広まりません。公開された場で、旧長崎刑務所に対するI君の思いを聴かせて下さい。
旧羽前銀行長井支店(昭和9年築)。現在、個人邸となっています。
旧西置賜郡役所(明治11年築)。現在、小桜館という名の貸しホールとなっています。来年、築130周年を迎え、記念イベントが計画されています。古い写真を見ると、ベランダの付いた玄関ポーチがあったようですので、その復元が待たれます。
ブログ月刊旧建築さんの情報で知ったのですが、倉吉の旧明倫小学校の円形校舎が、2009年度中に解体の方針とのこと。市長が議会で述べたとの記事が地元紙に載っています。
http://www.nnn.co.jp/news/071207/20071207006.html
旧明倫小学校の円形校舎は、小学校の移転後、地域公民館などとして活用されていましたが、老朽化を理由に全ての入居団体が退去させられ、ここ十年近くは空家のままでした。これまでも、解体されそうだという情報はずっとあったのですが、とうとう年限を定めて解体の予定が発表されました。
解体まで、まだ丸々1年以上時間があるなどと思わず、どうすれば耐震問題をクリアし、活用していくことができるかを考えなければなりません。各地の円形校舎がここ数年の間に続々と解体されていますが、一方では、横浜の明倫学園(奇しくも同じ明倫!)の円形校舎がDOCOMOMO Japan 2005の15選に選ばれています。
円形校舎は、そこに学んだ人々にとって強烈な思い出を残しており、また、よその土地の者にとっては不思議で魅力的な建物でもあります。観光資源としても、十分役立つ建物です。
耐震問題ぐらいクリアできないはずがありません。コストをかけずに、いかに耐震補強を行なうか。これに答えなければならないのは、建築に関わる技術者の方々です。残そうとする人々の意思と、技術者の力とで、倉吉の円形校舎を残さなければなりません。
ちなみに、世間では、円形校舎の存在そのものを知らない人々が数多くいる現実があります。円形校舎に学んだ人々は、どうか円形校舎のことを周囲の人々に語ってあげてください。どんな校舎だったかを。人々が円形校舎に興味を持つことが、保存への第一歩なのですから。
旧桑島眼科医院(昭和5年築)。曳家で移動し、保存された洋館です。ただ、せっかく保存された建物ですが、現在は残念ながら空家状態で常時使われておりません。個人的には、常設の展示などを行ない、まちと建物の紹介に使ってこそ建物を保存した価値があると思うのですが。
旧小池医院(昭和6年築)。以前から気になっている建物です。この建物の直前まで道路の拡幅工事が迫ったままでストップしています。ほんの少しだけ、歩道分が建物にひっかかっているだけなのです。何としても、残したい建物です。
会津服装専門学校。大規模な木造建築です。
側面に廻ると、蔦に覆い尽くされていました。
安藤写場。一見新しそうな建物ですが、木製サッシの様子を見ると、昭和初期の建物ではないかと思われます。
会津若松市役所(昭和12年築)。
丁字路の突き当たりに威厳ある姿で建っています。
うなぎあら池。円窓、スクラッチタイルの昭和初期のアールデコ建築です。
旧ノッス博士宣教師館(明治43年築)。現在、穴澤訪問看護ステーション、穴澤指定居宅介護支援事業所として使用されています。
同じ穴澤病院の敷地内には、同型の洋館が建っています。
旧連隊兵舎(明治41年築)。
旧連隊の門柱です。現在、中学校の校門として使われています。
会津漆器鈴善(昭和5年築)。昨日のA・C倶楽部も、この鈴善の蔵です。
小汲歯科医院。建物は新しい感じですが、塗装が厚いだけで相当古い医院と見ました。
中華の店とんがらし。元々はお屋敷だったのか、料亭だったのか。
居酒屋が入っている2連アーチの看板建築。会津若松では、こうした連アーチの看板建築の建物が目につきます。
日本キリスト教団若松栄町教会(明治44年築)。野口英世が洗礼を受けた教会。