野口英世青春通りに建つ旧医院。道路に面した部分が駐車場となって、建物の際までブロック塀が迫っています。
日本各地の近代建築探訪など
野口英世青春通りに建つ旧医院。道路に面した部分が駐車場となって、建物の際までブロック塀が迫っています。
旧黒河内胃腸病院(昭和10年築)。ちょっと整備され過ぎている「野口英世青春通リ」にある旧医院です。
旧五十嵐医院(大正12年築)。この通りは医者町で、道の両側に沢山に医院が建ち並んでいます。
建物は新築になっていましたが、こんな煉瓦の門柱のある医院もありました。
まちかどのたばこ屋さん。屋根の上の2つの角が、洋風建築の目印です。地域によって、角の形が違うのが面白いです。
とても良い感じの、小さな洋館。隣の敷地が駐車場となり、この建物が見えるようになりました。
池田種苗店。蕪のレリーフのかわいらしさで、仲間内で話題となった物件です。
旧塚原呉服店本店(大正15年築)。第二塚原呉服店とは道を隔てた斜向かいに建ち、運動具店として現役です。
第二塚原呉服店(昭和2年築)。看板建築が、まさに看板として成立しています。
しばらく沙汰止みとなっていた旧長崎刑務所の保存問題ですが、昨日の長崎新聞や今日の西日本新聞長崎版などに続報が出ていました。
旧長崎刑務所を一部保存へ 三角屋根の管理棟など
http://www.nagasaki-np.co.jp/kiji/20071119/02.shtml
旧長崎刑務所の所有会社 一部保存を検討 用途変更次第で再考も
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/local/nagasaki/20071120/20071120_002.shtml
旧長崎刑務所一部保存へ
http://cgi.ncctv.co.jp/news/index.php
旧長崎刑務所 一部保存へ検討
http://www.ktn.co.jp/news/d071119.html
これらの記事によれば、保存が検討されているのは、正門と正門から左右に広がる壁の一部(高さ約6.6メートル、幅約20メートル)、管理棟のエントランス部分(玄関と三角屋根の2階建ての部分、高さ約14メートル、幅約4.5メートル)。さらに、別の建物地下から見つかったアーチ形煉瓦造の基礎の一部も復元保存を検討とのこと。
全面保存を目指していた方々には大いに不満でしょうが、現実問題としてはこの保存内容で「御の字」ではないでしょうか。旧長崎刑務所が、全く何も残らず消し去られることに対して保存を訴えてきたのですから。
開発会社側は、「用途変更」で条件交渉に入っています。これは、小生が以前書いた通りです。諫早市側が持っている権限である「用途変更」と引換えに、旧長崎刑務所の一部保存、およびその土地と建物の市への寄付を検討しているのです。
諫早市側は、ぜひ、この交換に応じるべきだと小生は考えます。開発会社側にも、諫早市側にも、双方にとってメリットがあるからです。地域住民にとっても、近隣の商店主にとっても、跡地の大型商業施設進出は悪い話ではないと思います。
確かに、周辺の交通渋滞や、客の流れが変わってしまうことに対しての懸念はあります。それらの問題の解消のためには、旧長崎刑務所の跡地にできる駐車場をショッピングセンターのためだけのものとせず、周辺の商店街や観光スポットへ歩いて行くための基地として位置付け、徒歩で周遊する地域として周辺を整備するなど、新しい取り組みが必要です。
旧長崎刑務所の赤レンガを起点に、諫早公園の眼鏡橋(重文)や、昭和6年築の旧諫早銀行本店(十八銀行諫早支店)などをまわるためのガイドマップを用意し、途中のお店の紹介なども載せれば……、とアイデアがふくらみます。旧長崎刑務所のことについて学習できる常設展示も欲しいですね。
あまりお金をかけなくても、できることは沢山あります。今回の旧長崎刑務所の保存を契機として、諫早のまちの活性化のために、知恵を出し合って皆で話し合いましょう。
白木屋漆器店(大正2年築)。今も漆器店として活躍しています。
この白木屋漆器店は、旧第四銀行会津支店と並んで建っています。
旧第四銀行会津支店(昭和4年築)。岡田信一郎設計の本格的な銀行建築で、現在は滝谷建設工業の社屋となっています。
旧郡山商業銀行若松支店(大正10年築)。現在、「会津西洋館」「四ツ角大正館」という飲食店として活用されています。
旧若松庶民金庫。歴史的景観指定建造物。昨日の旧会津実業信用組合もそうですが、正面上部中央が丸くなっている建物は、いかにも街の近代建築です。
旧会津実業信用組合(昭和3年築)。現在、大林組の事務所となっています。
ホテル音羽屋本店(昭和12年築)。登録有形文化財。米沢の駅前に建つ、駅前旅館です。
旧米沢女子高等学校(昭和10年築)。登録有形文化財。現在、九里学園高等学校として現役で使われています。
旧米沢織物組合本館(大正11年築)。登録有形文化財。現在、米沢織物歴史資料館として公開されています。上杉博物館で、新築当時の写真を見ましたが、現在とはずいぶん違っています。ただ、階段の踊り場のステンドグラスなどは、以前のままです。
先にお知らせいたしました通り、今週月曜日より、下関市の山口銀行旧本店にて、「まちかどの近代建築写真展 IN 下関II」が開幕いたしました。
会場風景の写真が届きましたので、UPいたします(高月鈴世氏撮影)。
「全国の銀行建築 1920-1925」
~まちかどの近代建築写真展 IN 下関II~
会期:2007年11月5日(月)~18日(日)
10:00~17:00
(会期中、土、日は休館。ただし、18日(日)午後は、コンサートイベントがあるため開館します。最終日は16:00まで)
会場:山口銀行旧本店(山口県指定有形文化財)
山口県下関市観音崎町10-6
主催:下関市
協力:「まちかどの近代建築写真展 IN 下関」実行委員会/近代建築探訪メーリングリスト
※明日10日より、対岸の門司で「赤煉瓦ネットワーク2007門司大会」なのですね。
http://mojirenga.navitown.com/event.htm#071031-1
「産業考古学会全国大会」も。
http://f17.aaa.livedoor.jp/~heritage/H19zenkokutaikai.html
下関市や下関市教育委員会も後援に入っている。下関市役所第一別館や、山口銀行旧本店にも、ぜひ見に来て欲しいものです。
追記
11月10日(土)、11日(日)、17日(土)は、休館でした。残念(涙)。
旧米沢高等工業学校本館(明治43年築)。現山形大学工学部で、国の重要文化財に指定されています。
昨日(11月6日)の日経新聞夕刊の文化欄に、工場や水門、ダムなどの写真集が売れているという記事が載っていました。記事の構成や発言者の見解には多少違和感もありますが、肯定的な記事でしたので、まずは良しとしましょう。
記事の文脈を追うと、これらの写真集の特徴は、プロの写真家ではなく、素人の撮った写真集であることが挙げられています。写真集『工場萌え』の編集担当である東京書籍の角田氏は、「写真がうまい人ならもっといる。でも愛はない。石井氏の写真からは工場が好きでたまらないという愛が伝わる。それが読者の共感を呼んだと思う」と発言しています。
まあ、「愛」と言ってしまえばそれまでなのですが、それがマニアの力(パワー)だと小生は考えます。時間であれ、お金であれ、プロとは違う形での強い力の注ぎ方をしており、そうした背景があっての「写真」なのです。
『工場萌え』の共著者である大山顕氏は「僕らが好きなのは写真じゃなくて被写体。そこが写真家の写真と違う」と発言しています。これは、小生がかねがね言っていることと同じで、大いに共感します。作品としての写真ではなく、写っている被写体自体が大切なのです。現物をコレクションすることができないゆえに、写真を撮っているのです。例えれば、昆虫マニアのコレクションである標本の代わりが、ある対象を撮った写真の数々なのです。
写真集『東京鉄塔』を出した自由国民社の竹内尚志編集部長は、「これまでの写真集は『いかに撮るか』というプロの目や腕を見せるもの。今、出ている本は『何を撮るか』に重点がある」「本格的な写真家から見れば邪道。けれど写真より、写っているものが大事という人は撮る側にも見る側にも増えている」と語っています。
これは、学生時代に写真部内で論争したことのあるテーマでした。要は、写真がごく一部の者だけのモノではなく、全ての人々のモノとなったということに尽きるのではないでしょうか。写真の敷居が低くなり、写真を撮るということが特別なことではなくなり、作品ではなくメモ代わりの記録として、手軽に写真を撮ることが普通の社会になったということでしょう。フィルムのコンパクトカメラが登場したときには、それは家族を撮る「スナップ写真」でした。それが今は、身の回りの静物を撮る写真となったのです。大山氏は「オルトスケープ」と呼ぶことを提唱していますが、小生は風景ではなく静物として、コレクションに加えるような意識で被写体を撮影しているのではないかと考えます。
「今までとは違う新しい感性が出てきた」という、写真評論家の飯沢耕太郎氏の発言には違和感を感じました。「工場や団地を見て育ち、アニメ『ガンダム』や大友克洋の漫画、映画『ブレードランナー』に登場する未来の都市イメージを現風景として共有する世代。公害などのマイナスイメージにも縛られず、純粋に産業構造物を美しいと見られるのだろう」とは、何とも表層的な想像です。どうして、すぐに「ガンダム」や「プレードランナー」が出てきてしまうのでしょう。
小生は、この産業構造物への傾斜は、昭和ブーム、レトロブームと同根であると考えています。円筒形の赤い郵便ポストが懐かしいように、工場やダムなどの巨大な産業構造物も、すでに人々の「懐かしい」範疇に入ったのです。飯沢氏はこの被写体について「未来の都市イメージを現風景」としますが、小生はその被写体自体がすでに過去のイメージなのだと考えています。人々が記録するということは、やがて失われゆくはかなさ、懐かしさなのだと。これは、根拠のあることではありませんが、そこにあるものは永遠ではないということがいつも意識されており、今を記録してコレクションしておきたいという欲求により、こうした写真が撮られているのだと実感しています。
そもそも、マニアの写真とは、そういうものです。「写真マニアの写真」なのではなく、「○○マニアの写真」なのです。駅のホームにいる鉄道マニアの写真を思い浮かべてみれば、わかりやすいでしょう。少し以前から鉄道写真というジャンルが確立しており、多くの写真集が発行されています。市場規模が大きくなり、需要が高まれば、そこに鉄道写真のプロが成立します。ただし注意しなければならないのは、この鉄道写真のプロは、写真家が鉄道写真を撮るのではなく、鉄道マニアがプロの写真家になっているという点です。産業構造物のブームが一過性のものではなければ、いずれはこのジャンルのプロの写真家が育つことでしょう。マニアではないプロの写真家が、このジャンルの写真を撮ったとしても、何か違う写真になってしまうものです。
「単なる『偏愛写真』と片づけられない広がりを見せそうだ。」とこの記事はまとめています。「偏愛写真」とはずいぶんな言いようですが、それぞれのマニアの力が、マニアではない一般の人々にも理解され、評価されるようになったということでしょう。誰もが均質な関心を持つ時代から、マニアックに狭く深くを求める時代へと、確実に進んでいるのです。
スクラッチタイルの店舗。旭川などでは公設市場の建物の印象ですが、新潟ではどういう建物だったか。
昭和10年代から20年にかけて、戦時下で金属不足のため、鉄筋コンクリートに代わる材料として竹筋コンクリートが研究され、実際に施工されたと言われています。
しかしながら、現在、どれが竹筋コンクリートによる物件であるかは文献では伝わっておらず、伝聞として伝わっているものばかりでした。
少々前になりますが、今年の7月、玉井孝幸先生のブログ「建築調査技術コンサルタンツ」に、決定的な情報が記載されていました。
http://brtc.at.webry.info/200707/article_5.html
昭和16年発行の古本『時局化における土木工事の施工法に関する講演会講演集』のなかに、「竹筋コンクリートの強度並びに調査」と題する発表があり、竹筋コンクリートで施工された建築物の例が載っているとのことです。
報告されている物件は、下記の4件。
農林省林業試験所の各試験地の建築物の一部
・白河(福島県)気象観測室および雨量計地下室
・鷹巣(秋田県)
・釜淵(山形県)
・十日市(新潟県)
現存しているかどうかはわかりませんが、少なくとも昭和16年までに、実際に竹筋コンクリートの建築物が建てられたことが明らかになりました。
それぞれの地元の方からの情報提供を、切望いたします。当時の建物は、現地に残っていますでしょうか。小生も、いずれ各地を訪ねてみたいと思います。
昭和16年以降にも、竹筋コンクリートの建築物は建てられたはずです。さらなる発見を期待したいものです。
旧歯科医院。「歯科」の文字跡がかろうじて読みとれます。現在は、魚屋さんです。
中村写真機店(昭和11年築)。白いタイルをまとった四角い建物で、新築当初は白亜のモダン建築だったと思います。
副知事公舎(大正10年築)。現在、レストランとして活用されています。
旧会津八一邸(昭和3年築)。北方文化博物館新潟分館として公開されています。