市内で見かけた看板建築群です。
日本各地の近代建築探訪など
市内で見かけた謎の物件です。建物のシマシマは、モルタルでコーナーストーンを表したものかと思われます。弁護士などの事務所ではないかと思われます。
旧弘前偕行社の裏手に、趣のある住宅が2棟建っています。おそらく、官舎だったのではないでしょうか。
旧吉井酒造煉瓦倉庫(大正14年頃築)。弘前に行く都度、気になっていた大きな煉瓦倉庫です。近年、ギャラリーとして使用されたりしています。
旧弘前銘醸煉瓦倉庫。現在、弘前製氷となっています。
市内の幹線沿いで見つけた下見板張の洋館。事務所でしょうか。
木村産業研究所(昭和7年築)。登録文化財。前川國男のデビュー作です。
旧三原堂弘前支店(明治30年築)。現、一戸時計店。時計塔のかわいい、古くからの商店街に建つ弘前のランドマークです。
旧高谷英城別邸洋館(昭和10年築)。弘前にある本格的ライト建築で、現在、中華レストランとして活用されています。
旧青森尋常中学校(明治26年築)。現在、弘前高校構内で鏡ケ丘記念館として大切に保存されています。
旧弘前無尽(昭和2年築)。旧国立第五十九銀行や日本基督教団弘前教会会堂の道路の向かいに建っている商業ビルです。
旧角三呉服店(明治16年築)。市指定文化財。土蔵造の擬洋風建築です。大正6年に津軽銀行に譲渡され、平成10年まで長らく青森銀行津軽支店として使われていました。現在、弘前市立百石町展示館として公開されています。
先日、読売新聞に「ムンプス難聴」のことが載っていました。「ムンプス難聴」と言われても何の病気かわかりませんが、おたふく風邪の合併症で、おもに片耳が難聴になるとありました。
http://www.yomiuri.co.jp/iryou/medi/renai/20070912-OYT8T00075.htm
小生も、まさにこの難聴で、5歳の頃おたふく風邪で熱を出し、左耳の聴力を失ってしまいました。45歳になる今日まで、自分の病名を知りませんでしたが、「ムンプス難聴」という名の難聴だったのですね。5歳で入院もし、その後もずっと耳鼻咽喉科に通い続けました。治療法のない病気なので、聴こえるほうの耳の維持のためのメンテナンスでしたが。聴力検査用の防音室での検査など、小さな子どもだったのに、慣れたものでした。
記事によれば、これまで「ムンプス難聴」の発症はごくまれで、1万5千~2万人に一人の割合程度と言われていたが、最近の調査では、もっと高い頻度で発症しているらしいことが報告されているとのこと。
「ムンプス難聴」になってしまったお子さんを持つお母さん方が、ホームページやブログで、熱心に情報交換を行なっておられます。
ムンプス難聴のお部屋
http://www.geocities.jp/mumps_deafness/
お子さんの将来のことを、ずいぶんと心配されているようですが、小生自身の経験から言えば、多少の不便はありますが、まあ普通にやっていけると思います。40年間、この片耳生活を続けてきましたが、幸い、片耳が聴こえないからといじめられることもなく、学校時代を終えました。
進路指導や就職活動のときに、音楽関係や音響関係の仕事は止したほうがよいと、アドバイスされました。まあ、小生自身はそちらの方面に行こうとは思っていなかったので、何も悩みませんでしたが。
不便は、いろいろとあります。ステレオ効果を実感することができませんし、ステレオヘッドフォンは片側しか聴こえないので、モノラルにして聴いています。聴こえない側から話しをされても、聞きとれないことが大半です。聴こえない側の後方から来る、人や自動車などの気配も感じられません。街で誰かに呼びかけられたりしても、前後左右どの方向から呼ばれたのか判らず、キョロキョロしてしまいます。
一番ショックだった思い出は、中学生のとき、陸上部の市内大会で400m走に出場したのですが、スターターの「ヨーイ」の声が聴こえず、用意の姿勢をとれないままピストルが鳴ってしまったことでした。このときは、何ともやりきれない思いをしました。改善できることなのですから。
小生と同じように、おたふく風邪の影響で片耳しか聴こえない人が結構いるのだと知り、心強く思いました。さらに、おたふく風邪が原因なのですから、おたふく風邪の予防接種をすれば「ムンプス難聴」が防げるということも、発見でした。海外先進国では、予防接種が普及しているため、「ムンプス難聴」がほとんどないのだとか。防げるものなら、それに越したことは無いと思います。予防接種の副作用との兼ね合いですが、海外事例から考えれば、おたふく風邪の予防接種をしたほうが良いと、小生は思います。
「ムンプス難聴」の子どもたちに、声援を送りたいと思います。
旧第八師団長官舎(大正6年築)。登録文化財。市役所敷地に移築され、市長公舎として使われました。
旧弘前市立図書館(明治39年築)。青森県指定重要文化財。一時期、民間に払い下げられ、他の場所に移築してアパートとして使われていました。昭和62年に東奥義塾が移転して追手門広場となる際に、かつて建っていた場所の近くに再移築されました。
旧東奥義塾外人教師館(明治34年築)。青森県指定重要文化財。昭和62年に東奥義塾が別の場所に移転し、跡地が追手門広場として整備され、この外人教師館がそのまま旧敷地内に保存された形となりました。
旧国立第五十九銀行(明治37年築)。国指定重要文化財。現在、青森銀行記念館として公開されています。かつては、日本基督教団弘前教会会堂と同じ通り沿いに建っていましたが、昭和40年代に90度振って一区画奥に移築・保存されました。
日本基督教団弘前教会会堂(明治40年築)。弘前城を背にして幹線道路に面して建つ、弘前を代表する教会の建物です。現在のペイント色は、ちょっと浮いている感じがするのは小生だけでしょうか。
先にお知らせいたしました、社団法人日本建築学会九州支部が、株式会社ユニディオコーポレーションおよび株式会社新日本建物宛に出した旧長崎刑務所の保存要望書が、HPに掲載されました。
社団法人日本建築学会
http://news-sv.aij.or.jp/scr/request/teigen.asp
社団法人日本建築学会九州支部
http://wwwsoc.nii.ac.jp/kbaij/hozonyobo/hozonyobo.html
いくら保存要望書を出しても、全ての建物が保存されるわけではなく、逆にあっさりと解体されてしまう建物のほうが多いのが現実です。しかし、何もしないままよりは、建物の所有者がその建物について考える機会となるのではないでしょうか。所有者自身が考えるところからスタートしなければ、保存も何も始まらないのです。たとえ、その建物の所有者が、官であれ民であれ。
小生の感触では、かつては民間所有の建物のほうが壊されてしまう確率が高かったと思うのですが、今は国や地方自治体所有の建物のほうが簡単に壊されてしまう傾向にあるようです。所有者の組織の中に、この建物は壊してはならない、残さねばならない、という志を持つ人物があらわれにくい世の中になっているのでしょうね。悲しいことです。
「お金が無い」という一点だけが、いつも、全ての建物の解体理由となってしまいます。しかし、「お金が無い」ということは、保存に向けての費用が出せないということであって、解体せざるを得ないという理由には、論理的にはならないはずです。「お金が無い」と、「解体せざるを得ない」との間には、何か他の理由がなければ、理屈が通りません。もっと「お金が無い」以外の、何か建設的・積極的な理由で議論をしたいものです。そうすれば、何とか建物を残しながら所有者にとってもメリットのある妙案を探すことができると思うのです。「お金は無い」けれども。
続報の無いまま時間が過ぎて行きますが、旧長崎刑務所解体の進行具合が危惧されます。
弘前カトリック教会(明治43年築)。この教会も、以前は住宅地の中に埋もれるようにひっそり建っていたのですが、現在は広々とした敷地に美しくそびえています。
弘前昇天教会聖堂(大正10年築)。弘前で計画道路や拡幅工事が活発化する以前、この教会は知る人ぞ知るといった隠れた存在でした。現在は、周囲の建物の立退きもあり、広い通りから駐車場越しに見渡せる、弘前を代表する教会の一つになりました。
旧偕行社(明治38年築)。戦後、保育園として使用されていましたが、現在は弘前女子厚生学院記念館として公開されています。
旧制官立弘前高等学校外人教師館(大正14年築)。旧偕行社のそばから、弘前大学構内に移築されました。きれいにペイントされた姿は、移築前の姿を思うとまるで別物のようです。
旧弘前学院外人宣教師館(明治39年築)。大学の一角に大切に保存されています。
台風の通り過ぎた9月7日、日本建築学会九州支部よりお預かりした旧長崎刑務所の保存要望書を、現所有者に手渡してきました。
現在、旧長崎刑務所は、東京に本社のある株式会社ユニディオコーポレーションと株式会社新日本建物の2社が所有しています。
株式会社ユニディオコーポレーション
http://www.unidio-corp.co.jp/
株式会社新日本建物
http://www.kksnt.co.jp/
近々、日本建築学会九州支部のHPに保存要望書の文面が公開されるかと思います。これでようやく、旧長崎刑務所が学術的にも保存すべき物件であると、公的に示されたということになるでしょう。すでに解体が始まっていますが、旧長崎刑務所の価値を所有者の方々にご理解いただき、保存・活用について検討いただければありがたいと思います。
社団法人日本建築学会九州支部
http://wwwsoc.nii.ac.jp/kbaij/
小生、今回初めて保存要望書を手渡す役を引き受けたのですが、過去の事例を調べてみると、保存要望書の受取りを拒否するような例もあるようなので、受け取ってもらえるかどうかを心配しておりました。無事、受け取っていただけましたので、ひとまず大役を果たすことができました。
あとは、どのような反応があるか、です。良い結果を、期待したいと思います。
正進会館。現在、空手の道場となっています。窓の飾りなどを見ると、軍か学校の講堂だったのではないかと思われます。
弘前消防団西地区団第一分団屯所。前川國男の木村産業研究所を探していて、偶然見つけた屯所です。道がクランクになったところに建っています。
旧弘前消防団第四分団屯所。元弘前警察署紺屋町巡査派出所で、弘前城の真裏に位置します。
すでに解体も始まった旧長崎刑務所ではありますが、仮に保存が実現したとして、どのような活用方法があるかを、思いつくまま、独断で勝手に書いてみました。採算や費用度外視で、とにかくプランの種類や数を多く出すことが目的です。実現性のないムダなことだなどと考えずに、皆さんの考えもお寄せください。
●ホテルなどの宿泊施設。房舎も、当然改修して宿泊施設として利用する。倉敷アイビースクエアのイメージ。
・倉敷アイビースクエア
http://www.ivysquare.co.jp/
●刑務所博物館。旧長崎監獄を体感する体験型施設。修学旅行生や、団体観光バスによる集客を期待。博物館網走監獄のイメージ。
・博物館網走監獄
http://www.kangoku.jp/
●レストランなどの飲食店。庁舎だけ保存の場合にも有効。事例は多いが、例えば東京の小笠原伯爵邸などのイメージ。
・小笠原伯爵邸
http://www.ogasawaratei.com/html/index.html
●地域の集会所・公民館など公共施設。庁舎だけ保存の場合、公民館を新築する予算を改修・改装費用に充てれば、充分実現可能と思われる。一部は展示コーナーとして、旧長崎刑務所についての展示解説を行なう。
●たてもの園。庁舎を管理棟とし、長崎歴史文化博物館の分館として、長崎県内で解体せざるを得なくなった歴史的な建物を移築保存し野外展示を行なう施設とする。犬山の博物館明治村や、東京の江戸東京たてもの園のイメージ。
・博物館明治村
http://www.meijimura.com/index.html
・江戸東京たてもの園
http://tatemonoen.jp/
●結婚式場。歴史的な建物を結婚式場にする例は多いが、さすがにこれはムリだと思う(笑)。
●温泉施設。庁舎を利用し、スーパー銭湯的な入浴施設にする。イメージが貧弱(泣)。
●ショッピングセンターの管理棟。敷地をショッピングセンターとする場合、庁舎を管理棟として保存・活用する。
●シナリオ図書館。庁舎を利用し、諫早出身の市川森一氏の作品をはじめとする、テレビドラマや映画などのシナリオ(台本)全て収集する図書館とする。
●九州赤煉瓦博物館。九州地区の赤煉瓦建造物の資料展示を行なう。舞鶴の赤れんが博物館のイメージ。
・舞鶴市立赤れんが博物館
http://www.maizuru-bunkajigyoudan.or.jp/akarenga/index.htm
町の中央部にある紡績工場の建物。周囲に建ち並んでいた別棟の建物が、今まさに解体中でした。この建物は保存されるのでしょうか。
8月31日、諫早で開催された「旧長崎刑務所の保存と活用を考える市民フォーラム」ですが、当夜、出席された長崎総合科学大学の山田由香里さんからお電話をいただき、会議の様子などをうかがいました。また、「旧長崎刑務所の保存と活用を考える会」の栄田元信さんから、メールで状況のご報告をいただきました。長崎県建築士会長崎支部青年部のブログや、長崎新聞、西日本新聞などでも報道されております。
「市民フォーラム」((社)長崎県建築士会 長崎支部青年部のブログ、9月1日付)
http://blog.goo.ne.jp/nagasaki-seinenbu/e/1d23657a658badda0f9bbbfc5be4b48c
「高評価、一方で否定的声も 旧長崎刑務所でフォーラム」(長崎新聞、9月2日付)
http://www.nagasaki-np.co.jp/kiji/20070902/04.shtml
「「署名行動で勢いを」「解体の現実を直視」 旧長崎刑務所の保存策探る 諫早でフォーラム」(西日本新聞、9月2日付)
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/local/nagasaki/20070902/20070902_002.shtml
お話をうかがった内容や報道などを見ると、市民の間でかなり意見が割れてしまっているようです。これまでにも、近隣住民の意見は報道されていましたが、旧長崎刑務所を保存するということについての反発は報道以上のものがあるようです。近隣の地主など、直接、利害や利権の絡む問題ですので、これは止むを得ないことでしょう。
また、当ブログへのコメントとして、市民の方々からいくつか書き込みがありました。武田洋子さん、ムーミンさん、山口さん、コメントありがとうございます。それらの意見をまとめると、主張は次の3点になるかと思われます。
まず、財源の問題です。ここでも、保存するには10億円もかかるというステレオタイプの金額が提示されています。今のご時世、お金が無いのは当然ですので、お金が無いならば無いなりの保存の方法があります。また、その負担を市民に負わされるのではたまらないという意見はもっともなことで、旧長崎刑務所のような貴重な文化財級の物件の保存は、国民の財産として国全体で負担すべきでしょう。これは私見ですが、文化財の保存は、将来の子孫に残すということですから、未来への負債でも良いのではないかと考えています。後世、よくぞ残してくれたと喜ばれるか、なぜ解体してしまったと恨まれるか、ということです。
次に、なぜ今ごろ保存を言い出すのかという時期の問題です。これは、現在保存を主張している人々が、反省しなければなりません。小生も、なぜもっと早く保存を訴えなかったのかと思っています。小生の場合、2005年に出た書籍『九州遺産』に掲載されていた写真でこの旧長崎刑務所を知り、2006年の春に初めて現地で旧長崎刑務所を見、なんとか保存できないものかという思いをつのらせておりました。所有者が国であり、何らかの保存措置はするだろうという淡い期待もしておりました。今年の春、報道で民間業者への売却を知るに及び、このままでは解体されてしまうとの危機感から、ようやく行動を開始したのでした。正直なところ、旧長崎刑務所のことを知るのが遅すぎたというのは事実です。もっと早くに、この旧長崎刑務所のことを知っていればと思います。ただ、解体に着手したいまさらでは遅すぎるということは決して無く、どんな時点であれ保存が主張されたということは、まだ可能性を残しているということです。小生のように、多くの人々が旧長崎刑務所のことをまだ知りません。それらの人々に、この旧長崎刑務所の存在を知ってもらい、残すか解体するかの価値判断をしてもらわなければならないと考えています。ごく一部の役人の判断だけで、国民の貴重な財産を喪失してしまっては、後世に取り返しのつかないことになってしまいます。たとえ、多くの市民が解体を望もうとも、保存すべき価値のあるものは、利害関係抜きに判断し、保存措置が図られなければならないと考えます。
最後に、保存を主張するのは市外の人々だけで市民は解体を望んでいるという、これまでも多くの保存運動で見られた地元が解体を望むという構図の問題です。文化財級の貴重な財産である旧長崎刑務所は、近隣住民や行政地域内の市民のものではなく、広く国民のものであるということを理解すれば、この主張はあきらかに誤りであると納得してもらえると思います。さらに、先にも述べたように、貴重な財産である旧長崎刑務所は、現在生きている者だけの財産ではなく、将来の子孫の財産でもあるということを考慮しなければなりません。小生は、これまでにもこの構図を、空間軸と時間軸の問題として、もっと視野を広げて考える必要性を主張してきました。解体してしまうということは、両軸を断ち切ってしまうということなのです。
以上、市民フォーラムを受けての、小生の感想と回答でした。
なお、この市民フォーラム前後にも、旧長崎刑務所のことが盛んに報道されています。多くの人々に、旧長崎刑務所のことを知ってもらうことが、今いちばん大切なことなのだと思います。
「貴重な西欧風れんが造りを発見 旧長崎刑務所解体現場」(長崎新聞、9月1日付)
http://www.nagasaki-np.co.jp/kiji/20070901/01.shtml
「山下啓次郎と旧長崎刑務所展 市立諫早図書館で始まる」(長崎新聞、8月28日付)
http://www.nagasaki-np.co.jp/kiji2/2007082802.shtml
「旧長崎刑務所正門など保存訴え 諫早市に「考える会」要望書…旧長崎刑務所」(読売新聞、9月4日付)
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/nagasaki/news004.htm
近く、社団法人日本建築学会九州支部より、保存要望書の提出が決まったとのことです。旧長崎刑務所が、学術的にも貴重な物件であるということが、裏付けされました。
竹下医院。すっかり塗装のはげてしまった下見板貼りの洋館。
小林眼科医院。ピンク色の塗装がカワイイ、下見板貼りの洋館。
金花堂八百支店。左右対称の綺麗に整ったアールデコ調の建物。